森羅万象(しんらばんしょう)
この世に存在する、ありとあらゆる物事や現象。物だけでなく、天地の間に起こる現象まで含めて言う。
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そのまま使える例文
就任の挨拶で「森羅万象に学ぶ姿勢だけは失わずにいたい」と述べた。
深掘りに備える — 由来
仏教語に由来する四字熟語である。四字熟語辞典オンラインは出典に『法句経』を挙げ、丁福保『仏学大辞典』も「法句経に曰く、森羅及万象」としてこの経を引く。
聞かれたら: 「一説に『法句経』に由来する言葉です」と出典を一言添えられると強い。
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仏教語に由来する四字熟語である。四字熟語辞典オンラインは出典に『法句経』を挙げ、丁福保『仏学大辞典』も「法句経に曰く、森羅及万象」としてこの経を引く。ただしここで言う『法句経』は、よく知られた『ダンマパダ』の漢訳とは別に大正新脩大蔵経第八十五巻に収められた漢文経典で、その本文では「参羅及万像、一法之所印」(参羅および万像は、一法の印する所なり)と、「参羅」「万像」の字で書かれている。「森羅及万象」の形は、この句を「経に云う」として引く『宝蔵論』や唐の法蔵『修華厳奥旨妄尽還源観』、宋代以降の禅籍に見える。「あらゆる存在は唯一の真理に貫かれている」と説く文脈の語で、もとは単に「たくさんある」という意味ではなかった。一方、精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉はいずれもこの句を出典として示していないので、由来を『法句経』一本に断定はできない。字義は「森」が木の多いこと、「羅」が連なることで、「森羅」は無数に並び連なるさま、「万象」はあらゆる形あるものを指す(四字熟語を知る辞典)。中国語でも成語として生きており、台湾教育部『重編国語辞典修訂本』は「森羅萬象」を立項して宋代の禅籍『五灯会元』巻十九の「乾坤大地、日月星辰、森羅万象」を引き、「万象森羅」とも言うと注する(同『成語典』は本文に収めず、「包羅万象」の参考資料として付録に載せる)。日本語では「しんらまんぞう」の読みが古く、道元『正法眼蔵』(1231〜53)法性の巻に「この森羅万象と法性と、はるかに同異の論を超越せり」とあり、『日葡辞書』(1603〜04)にも「御主デウス森羅万象ヲツクリタマウ」の例が載る。「しんらばんしょう」の読みの初出は洒落本『契情買虎之巻』(1778)で、江戸後期の戯作者・桂川甫粲がこの四字を号にしたことも知られる(以上、精選版日本国語大辞典)。
似た語と間違えない
Weblio の類語辞典だけが挙げる「万物」が存在する物そのものを指すのに対し、「森羅万象」は物と現象の両方を含み、しかも「無数に並び連なっている」という広がりの感覚を伴う。「天地万物」「天地万象」は四字熟語辞典オンラインとWeblio類語辞書がともに類義に挙げる語で、意味はほぼ重なるが、「天地」という枠を言葉の上に出すぶん仏教の含みは薄い。「有象無象」も両辞典が類義に挙げるが、現代では「数ばかり多くてつまらない人や物」という蔑みの意味が先に立つので、入れ替えには向かない。一部の解説は「一切合切」も類義に挙げるが、こちらは「残らず全部」という網羅の強調で、身の回りの物事にも使える砕けた語感があり、宇宙規模の広がりは持たない。
こんなシーンで使う
スケールの大きな語で、聞き手には「大きく構えた人」という印象を与える。就任の挨拶や式辞で「森羅万象に学ぶ」と述べる程度なら格式が場に合い、デジタル大辞泉が類語に「自然・造化・大自然」を並べるとおり、聴衆には自然そのものの重々しい言い換えとして届く。面接で座右の銘として挙げると、対象が広すぎて自分の経験と結びつけられず、面接官の深掘りの二問目で止まりやすい。ESに「森羅万象に興味がある」と書くのも、読み手には「何にも絞れていない」と映るので、具体的な対象を先に挙げたい。日常会話では大げさに響くので、書き言葉と改まった場に寄せたほうが自然に収まる。
以下のテーマ・シーンでよく使われます。
よくある質問
- 森羅万象の類義語は?
- 天地万物、天地万象、有象無象
- 森羅万象の由来は?
- 仏教語に由来する四字熟語である。四字熟語辞典オンラインは出典に『法句経』を挙げ、丁福保『仏学大辞典』も「法句経に曰く、森羅及万象」としてこの経を引く。