一炊之夢(いっすいのゆめ)
飯を一炊きする間に見た栄華の夢のように、人の世の栄光や富貴がはかなく短いことのたとえ。
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そのまま使える例文
創業記念の挨拶で「上場の日の熱狂を一炊之夢にしないために、明日からの仕事がある」と社員に語った。
深掘りに備える — 由来
出典は唐代の伝奇小説『枕中記』。作者はデジタル大辞泉・精選版日本国語大辞典・台湾教育部『成語典』など多くの辞典が沈既済とするが、精選版日本国語大辞典は「李泌撰と題するものもある」と注記し、日本大百科全書も「邯鄲の夢」の項では李泌作と書くなど揺れがある。
聞かれたら: 「『枕中記』に由来する言葉です」と出典を一言添えられると強い。
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出典は唐代の伝奇小説『枕中記』。作者はデジタル大辞泉・精選版日本国語大辞典・台湾教育部『成語典』など多くの辞典が沈既済とするが、精選版日本国語大辞典は「李泌撰と題するものもある」と注記し、日本大百科全書も「邯鄲の夢」の項では李泌作と書くなど揺れがある。筋は、開元年間、道士の呂翁が邯鄲への道中の宿で、身の不遇を嘆く若者・盧生と出会い、宿の主人が飯を蒸し始めたところで懐の枕を貸す。盧生は夢の中で名家の娘を娶り、進士に登第して宰相にまで上り、失脚と復権を経て八十余歳で世を去るが、目覚めてみると主人の飯はまだ炊き上がっていなかった、というもの。維基文庫所収の『枕中記』本文はこの飯を「黍」と記す(「時主人方蒸黍」「主人蒸黍未熟」)。一方、『太平広記』巻八十二「呂翁」(『異聞集』より)の本文では「主人蒸黄粱」となっており、「黄粱(おおあわ)一炊の夢」「黄粱の夢」の呼び方はこちらに基づく。「一炊の夢」は、飯が一度炊き上がるまでの間しか経っていなかったという夢の短さを取った言い方で、同じ故事から「邯鄲の枕」「邯鄲の夢」「盧生の夢」とも言う。日本語の用例は室町期の『文明本節用集』に見え、精選版日本国語大辞典は謡曲「鉢木」(1545年頃)の「その邯鄲の仮枕、一炊の夢の覚めしも、粟飯炊く程ぞかし」を初出に挙げる。近代では二葉亭四迷『浮雲』(1887〜89年)、大町桂月『常磐の山水』(1907年)に用例がある(故事成語を知る辞典)。『下学集』や『天正本節用集』が「炊を睡と書くのは誤り」と注記するとおり、古くから「一睡の夢」と書き誤られてきた語でもある(精選版日本国語大辞典「語誌」)。中国語では「黄粱一夢」「一枕黄粱」の形が一般的で、台湾教育部の二辞典は「黄粱一夢」を見出しに立て、「一炊之夢」の形は立項していない。
似た語と間違えない
「邯鄲之夢」は同じ『枕中記』の故事から出た語で意味も重なるが、舞台となった地名で故事全体を指す。「一炊之夢」は飯が炊き上がるまでという夢の短さに焦点がある。「盧生の夢」「黄粱一炊の夢」も同じ故事の異称。「南柯の夢」は唐の李公佐の小説から出た別の故事で、槐の木の下で眠った男が蟻の国で二十年の栄華を見る話。台湾教育部の二辞典が「黄粱一夢」の近義に「南柯一夢」を挙げるとおり意味は近いが、夢の短さより、栄華の舞台が蟻の穴だったという小ささに皮肉がある。「夢幻泡影」は仏教の立場からこの世のすべてに実体がないことを説く語で、栄達の空しさに限らず、デジタル大辞泉の類語欄が「邯鄲の枕」と並べる程度のつながりにとどまる。
こんなシーンで使う
栄華や高揚が短くはかなかったことを振り返る語で、聞き手には「浮かれずに足元を見よう」という自戒として届く。創業記念や退任の挨拶で自分たちの来歴に向けて使えば引き締まった印象になるが、他人の成功を指して言えば、その成功を空しいと断じる皮肉になる。自分の経歴に使う場合も、何をはかないと感じたのかを言い添えないと、これまでの仕事を否定したように受け取られる。由来を一言添えるなら「飯が炊き上がるまでの間に見た五十年の夢」で足りる。書いて掲げるときは字に注意したい。「一睡の夢」は室町期の辞書がすでに誤りと注記した書き方で、見る人には知らずに書いたと受け取られる。
以下のテーマ・シーンでよく使われます。
よくある質問
- 一炊之夢の類義語は?
- 邯鄲之夢、邯鄲の枕、盧生の夢、黄粱一炊の夢、南柯の夢
- 一炊之夢の由来は?
- 出典は唐代の伝奇小説『枕中記』。作者はデジタル大辞泉・精選版日本国語大辞典・台湾教育部『成語典』など多くの辞典が沈既済とするが、精選版日本国語大辞典は「李泌撰と題するものもある」と注記し、日本大百科全書も「邯鄲の夢」の項では李泌作と書くなど揺れがある。