惻隠(そくいん)
苦しんでいる人を見て、思わず湧き上がる同情や哀れみの心。『孟子』が人に生まれつき備わる善の芽生えの一つとして挙げた「惻隠の心」の形でよく使われる。
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そのまま使える例文
卒業式の答辞で「惻隠の心を忘れず、困っている人に気づける人でありたい」と述べた。
深掘りに備える — 由来
出典は『孟子』公孫丑上。孟子は「人皆有不忍人之心」(人皆人に忍びざるの心有り)と説き、その根拠として「今人乍見孺子將入於井、皆有怵惕惻隱之心」を挙げた。
聞かれたら: 「『孟子』公孫丑上に由来する言葉です」と出典を一言添えられると強い。
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出典は『孟子』公孫丑上。孟子は「人皆有不忍人之心」(人皆人に忍びざるの心有り)と説き、その根拠として「今人乍見孺子將入於井、皆有怵惕惻隱之心」を挙げた。幼い子どもがいまにも井戸に落ちそうなのを不意に見れば、誰でもはっと驚き、痛ましく思う心が起こる、という意味である。孟子はその心が、子の親と近づきになりたいからでも、村の人々や友人に褒められたいからでもないと打算を退け、「無惻隱之心、非人也」(惻隠の心無きは人に非ざるなり)と言い切る。続けて「惻隱之心、仁之端也」(惻隠の心は仁の端なり)とし、羞悪・辞譲・是非の心をそれぞれ義・礼・智の端(芽生え)とした。これが性善説の根幹とされる「四端」の説で(デジタル大辞泉・ニッポニカ)、孟子は人に四端があるのは四体(両手両足)があるのと同じだと述べる(維基文庫の原文で確認)。なお同じ『孟子』の告子上にも四つの心が出てくるが、そこでは「惻隱之心、仁也」と「端」を付けずに仁そのものとして語り、辞譲の心の代わりに「恭敬之心」を挙げる。辞典が「四端」の出典に立てるのは公孫丑上のほうである。字義では、「惻」はいたむ・あわれむ意(デジタル大辞泉・字通)。「隠」はこの語では隠れる意ではなく、デジタル大辞泉は「同情をよせる」意の例に「惻隠」を挙げ、字通は「慇」に通じて「いたむ」意とする。日本語では『続日本紀』天平八年(七三六)の条に「朕甚惻隠」と見え、『集義和書』(一六七六年頃)に「惻隠の情」の形が出る(精選版日本国語大辞典)。故事成語を知る辞典は「惻隠の心」を見出しに立て、太宰治『竹青』(一九四五年)の用例を引く。
似た語と間違えない
辞典が類義語として挙げるのは「同情」(デジタル大辞泉が語釈に「同情すること」と置き、Weblio類語辞典も並べる)と「憐憫」(Weblio類語辞典。精選版日本国語大辞典も語釈で「あわれみの心」と言う)。「同情」が相手の気持ちを察して共に感じることを広く指す日常語であるのに対し、「惻隠」は他人の苦しみを見て思わず心が痛むという、打算より先に動く心に重心があり、孟子の四端説を背負った改まった語である。「憐憫」も哀れむ気持ちを言うが、相手を上から見下ろす響きを帯びやすい。Weblio類語辞典は「思いやり」「慈悲」も並べる。対義語を立てている辞典は見当たらない。
こんなシーンで使う
卒業式の答辞や、看護・福祉・教育など人を支える仕事の面接で、自分が大切にしたい姿勢として挙げると、聞き手には「他人の痛みに気づける人」という像が届く。実際には「惻隠の心」「惻隠の情」の形で使うことがほとんどで、「惻隠の情を催す」(デジタル大辞泉の用例)のように言う。二字だけで掲げると読み方も意味も取れない聞き手が出やすいので、「そくいん」という読み、「かわいそうだと心を痛める気持ち」という意味、孟子の言葉であることを一言添えたい。深掘りされたときは井戸の子どもの話を短く紹介できると、借り物の言葉ではないことが伝わる。そのうえで実際にどう行動したかと組にすると、上から相手を哀れむ響きにならない。
以下のテーマ・シーンでよく使われます。
よくある質問
- 惻隠の類義語は?
- 同情、憐憫
- 惻隠の由来は?
- 出典は『孟子』公孫丑上。孟子は「人皆有不忍人之心」(人皆人に忍びざるの心有り)と説き、その根拠として「今人乍見孺子將入於井、皆有怵惕惻隱之心」を挙げた。