無念無想(むねんむそう)
すべての雑念を払い、心を空にして何も考えない状態。本来は仏教語で無我の境地を言うが、「何の考えもない、思慮がない」という悪い意味で使われることもある。
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そのまま使える例文
弓道部の主将は壮行会で「的の前では無念無想、稽古してきた形を信じます」と語った。
深掘りに備える — 由来
出典は特定されていない。デジタル大辞泉・精選版日本国語大辞典・四字熟語を知る辞典・四字熟語辞典オンラインのいずれも「無念無想」の四字に出典を示しておらず、特定の人物や故事に結びつく記録もない。
聞かれたら: 「出典は特定されていない。」と正直に答えるのが最も強い。
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出典は特定されていない。デジタル大辞泉・精選版日本国語大辞典・四字熟語を知る辞典・四字熟語辞典オンラインのいずれも「無念無想」の四字に出典を示しておらず、特定の人物や故事に結びつく記録もない。台湾教育部『重編国語辞典修訂本』『成語典』にも見出しがない。ただし四字の連なり自体は仏典に古くからあり、大正新脩大蔵経の全文検索では、西晋の竺法護訳『光讃経』の「衆想を除去し、無念無想にして」や鳩摩羅什訳『仏蔵経』などに見える。いずれも禅定で想念を離れることを言う文脈で、日本語の語がそのどれかに直接さかのぼるとは言えないが、仏典に素地のある言い回しではあった。核になる「無念」を精選版日本国語大辞典は「想念をはなれた無我の境地にはいって何事も思わないこと。正念。無想」と釈し、対義語に「有念」を立てる。禅ではこの「無念」が教えの柱で、『六祖壇経』定慧品に「無念を立てて宗と為し、無相を体と為し、無住を本と為す」とあり(丁福保『仏学大辞典』も『頓悟入道要門論』の「無念を宗と為す」を引く)、「無想」は何も思わないこと、また一切の想念を滅する禅定「無想定」の略でもある(ブリタニカ国際大百科事典)。日本語の用例は、精選版日本国語大辞典が仏語の意味に浮世草子『傾城禁短気』(1711)の「ただ夢の浮世に無念無想にして、遊ぶ所が極楽々々」、「思慮のない」意味に浄瑠璃『百合若大臣野守鏡』(1711頃)の「むねんむさうの下部共」を挙げる。デジタル大辞泉も後者を引いており、江戸中期にはすでに修行の境地と「考えなし」の両義が並び立っていた。
似た語と間違えない
辞典が類語に挙げるのは「無心」の系列で、精選版日本国語大辞典は「無心」の仏語の項を「虚心。無念無想」と釈し、デジタル大辞泉は類語に無心・無我・虚心・虚心坦懐を並べる。「無心」は子どもの無邪気さにも使える日常語で、「無念無想」は修行の境地という重さを帯びつつ「考えなし」の意味にも転ぶ。「虚心坦懐」はわだかまりを捨てて素直に向き合う態度を言い、大辞泉の類語欄には載るが四字熟語辞典オンラインは挙げない。一部の解説は「明鏡止水」「心頭滅却」を類義に挙げるが、辞典の類語欄では確認できない。「明鏡止水」は澄んだ心境を静かな水面にたとえる語で、心が澄んでいることに重心があり、考えそのものを手放す「無念無想」とはずれる。「心頭滅却」は「心頭を滅却すれば火もまた涼し」の略で、精選版日本国語大辞典はこの句を「無念無想の境地にいたれば」と説明するが、苦痛を超えるという文脈を引きずる。対義語を挙げる辞典はないが、仏教語の「無念」には「有念」という対がある。
こんなシーンで使う
武道や弓道、打席に立つ前の心構えとして、書き初めや壮行会の抱負に掲げると、聞き手には「余計なことを考えず目の前に集中する」という姿勢が伝わる。ただしデジタル大辞泉は「思慮のないこと」を第二の意味に載せ、四字熟語辞典オンラインもこの語を「軽率」の場面に分類する。面接で仕事の進め方として「無念無想で取り組みます」と言うと、面接官には考えずに動く人だと受け取られかねず、ESでも読み手が二つ目の意味で読む余地が残る。使うなら、集中する対象(一球・一射・本番の一瞬)と、そこまでの稽古や準備を必ず添えたい。
以下のテーマ・シーンでよく使われます。
よくある質問
- 無念無想の類義語は?
- 無心
- 無念無想の由来は?
- 出典は特定されていない。デジタル大辞泉・精選版日本国語大辞典・四字熟語を知る辞典・四字熟語辞典オンラインのいずれも「無念無想」の四字に出典を示しておらず、特定の人物や故事に結びつく記録もない。