虚心坦懐(きょしんたんかい)
先入観やわだかまりを捨て、素直でおおらかな心でいること。
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そのまま使える例文
新任の部長は就任の挨拶で「まずは虚心坦懐に、皆さんの話を聞くところから始めます」と述べた。
深掘りに備える — 由来
出典は特定されていない。四字熟語としての古い漢籍の用例は確認されておらず、精選版日本国語大辞典が挙げる早い用例は里見弴『桐畑』(一九二〇年)の「虚心坦懐に話すことが出来た」である。
聞かれたら: 「出典は特定されていない。」と正直に答えるのが最も強い。
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出典は特定されていない。四字熟語としての古い漢籍の用例は確認されておらず、精選版日本国語大辞典が挙げる早い用例は里見弴『桐畑』(一九二〇年)の「虚心坦懐に話すことが出来た」である。構成要素のうち「虚心」は古典によく見える言葉で、『老子』第三章の「其の心を虚しくして、其の腹を実たす」(原文「虚其心、実其腹」。維基文庫の匯校版で確認)がよく知られる。一方の「坦懐」には古い典故がなく、「坦」は平らであること、「懐」は心を表し、好き嫌いにとらわれない平らな心という字義を持つ。四字熟語を知る辞典はこれを、似た意味の言葉を二つ重ねた熟語と説明している。台湾教育部『重編国語辞典修訂本』には「虚心坦懐」の見出しが無く、「虚心」の古典語に日本で「坦懐」を足して定着した四字熟語とみられる(推定であり、成立の経緯を確定できる資料は確認できていない)。近代以降は大岡昇平『俘虜記』(一九五二年)、小林秀雄『真贋』(一九七七年)、町田康『宿屋めぐり』(二〇〇八年)などにも使用例がある(四字熟語を知る辞典)。デジタル大辞泉は「何のわだかまりもないすなおな心で、物事にのぞむこと」と釈し、用例に「虚心坦懐に話し合う」を挙げる。同義の「虚心平気」は福沢諭吉『文明論之概略』(一八七五年)の「虚心平気以て至善の止まる所を明にし」が早く、こちらのほうが四字の形としては古い。
似た語と間違えない
辞典が類義語として挙げるのは「明鏡止水」「晴雲秋月」(四字熟語辞典オンライン・Weblio類語辞典)と、同義語扱いの「虚心平気」(デジタル大辞泉・精選版日本国語大辞典がともに「虚心坦懐に同じ」と立てる)。「明鏡止水」は曇りのない静かな心の状態そのものを言い、「晴雲秋月」は晴れた空の雲や秋の月のように澄んだ心を言う。「虚心坦懐」はそれらと違い、先入観やわだかまりを捨てて人の話や物事に向き合うという、相手や対象に対する構えを表す言葉である。デジタル大辞泉の類語欄は「無念無想」「無心」「無我」なども並べるが、無念無想は雑念を離れた無心の境地に重心があり、他の辞典は虚心坦懐と結びつけていない。四字熟語辞典オンラインは「虚心平意」「平気虚心」の形も類義に挙げる。
こんなシーンで使う
就任の挨拶や話し合いの冒頭で「先入観を持たずに聞く」という姿勢を示す語として収まりがよく、聞き手には「前任者や過去の経緯にとらわれない人だ」という印象を与える。面接で使う場合は、人の意見を素直に受け止めた経験と結びつければ、面接官にも吸収力のある人物として伝わる。ただし相手との対立や因縁がある場面で「虚心坦懐に」と言うと、自分だけ水に流したような言い方になりかねないので、相手に求めるのではなく自分の側の構えとして使うのが無難である。深掘りされたときは、「指摘を受け入れた」で終わらせず、受け入れた結果として何を変えたか(練習方法、手順、役割分担)まで言えると、素直さが行動として伝わる。「虚心坦懐に受け止める」「虚心坦懐に話し合う」のように「に」を伴う副詞的な使い方が多く、「虚心坦懐な人」と人物評に使う形は少ない。読みは「きょしんたんかい」で、「坦」を「だん」と読まない。字が難しいぶん書き言葉向きで、口頭なら「先入観なしに」と言い換えても意味は同じである。
以下のテーマ・シーンでよく使われます。
よくある質問
- 虚心坦懐の類義語は?
- 明鏡止水、虚心平気、晴雲秋月
- 虚心坦懐の由来は?
- 出典は特定されていない。四字熟語としての古い漢籍の用例は確認されておらず、精選版日本国語大辞典が挙げる早い用例は里見弴『桐畑』(一九二〇年)の「虚心坦懐に話すことが出来た」である。