行雲流水(こううんりゅうすい)
空を行く雲や流れる水のように、物事に執着せず、自然の成り行きに任せて淀みなくふるまうこと。もとは、滞りなく自然に進む文章のたとえ。
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そのまま使える例文
書き初めで「行雲流水」と書き、一年は結果にこだわりすぎず、目の前の一日を淀みなく過ごすと心に決めた。
深掘りに備える — 由来
典拠として辞典が挙げるのは、北宋の文人・蘇軾(蘇東坡)の書簡「答謝民師書」(維基文庫では「與謝民師推官書」)である。蘇軾は、海南島から戻った頃に謝民師という人物から詩文を送られ、その読後感を返信に記した。
聞かれたら: 「蘇軾「答謝民師書」に由来する言葉です」と出典を一言添えられると強い。
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典拠として辞典が挙げるのは、北宋の文人・蘇軾(蘇東坡)の書簡「答謝民師書」(維基文庫では「與謝民師推官書」)である。蘇軾は、海南島から戻った頃に謝民師という人物から詩文を送られ、その読後感を返信に記した。維基文庫の本文には「大略如行雲流水、初無定質、但常行於所當行、常止於不可不止、文理自然、姿態橫生」とあり、文章が決まった型を持たず、進むべきところで進み、止まるべきところで止まって、おのずから形が整うさまを雲と水にたとえている。つまり原義は人の生き方ではなく文章論で、日本国語大辞典は『宋史』蘇軾伝を参考文献に示す。そこから転じて、執着せず成り行きに任せる境地を指すようになった。精選版日本国語大辞典の初出例は夏目漱石『吾輩は猫である』(1905〜06年)の「苦沙彌君の文は行雲流水の如し」で、日本でも文章を評する語として使われた形が確認できる。禅の世界では「雲水」がこの語の略とされ、デジタル大辞泉は「行方を定めないで諸国を行脚する修行の僧」の意を、日本大百科全書(行脚の項)も行雲流水に例えて雲水と呼ぶと記す。
こんなシーンで使う
聞き手には、肩の力が抜けた落ち着きのある人柄として届きやすく、退任・定年・旅立ちの挨拶のように「これからは流れに身を置く」と語る場面でよく収まる。反対に、面接やESで志望の動機として掲げると、成り行き任せで計画性や意志が乏しい人だと受け取られかねない。使うなら「目標は定めたうえで、結果への執着は手放す」という筋を一言添えると、投げやりではなく自然体の強さとして聞こえる。
以下のテーマ・シーンでよく使われます。
よくある質問
- 行雲流水の由来は?
- 典拠として辞典が挙げるのは、北宋の文人・蘇軾(蘇東坡)の書簡「答謝民師書」(維基文庫では「與謝民師推官書」)である。蘇軾は、海南島から戻った頃に謝民師という人物から詩文を送られ、その読後感を返信に記した。